ワイン好きな人なら、日本ワインの発祥の地は山梨県だと言うのが定説で、1874年に山田宥教と詫間憲久の二人が本格的なワインを作り始めたところから日本ワインの歴史が始まったと言われています。
日本ソムリエ協会が出していた教本にもそう書かれていたのに、2020年版には”1627年から小倉藩細川家で葡萄酒が造られていた”と記載されていたのです。本当に?その証拠は?気になったので、調べてみました。
”小倉藩細川家で葡萄酒が造られていた”証拠は?
小倉藩細川家で葡萄酒が作られていたとの根拠は、熊本大学永青記念文庫研究センターにあった58,000点の資料の中に、記述があったからとのことです。それによると豊前国小倉藩を治めていた2代藩主細川忠利(細川忠興とガラシャの子)が造らせたと書いてあったようです。
それなのに、最初初代藩主細川忠興だと思われていたようです。造られた場所も最初大分県中津市と報道されました。実際は中津市ではなく福岡県京都郡みやこ町とのことでした。しかし、なかなか訂正されずにいましたが、2016年11月2日の毎日新聞が熊本大学永青文庫研究センターに取材して、正しい情報を載せました。
ところが、これに対して苦情や抗議が殺到したそうです。その中にはなんと山梨県からも。
事実を明らかにしないといけないと思った後藤典子研究員が、史料を読み込んでまとめたのが「細川家の葡萄酒造りとその背景」という論文でした。
「細川家の葡萄酒造りとその背景」の内容
後藤研究員は、「奉書」と呼ばれる藩主からの命令を奉行所が記録したものや「奉行所日帳」と呼ばれる奉行所がどんなことをしたかを記録した日報などから、細川家では寛永4年(1627年)から7年(1631年)までの4年間に葡萄酒が作られていたことが分かったと述べています。
材料は「がらみ」と呼ばれる山葡萄で、それに黒大豆を加えて発酵させて、葡萄酒を作ったようです。葡萄酒ができるまで約2週間というので、今より大分早いですね。ただ、葡萄酒は飲み物ではなく、薬として用いられたそうです。他の藩主からも分けて欲しいと言われるほどだったのに、たった4年間しか作られなかったのは、なぜでしょうか。
葡萄酒は当時キリシタンに入信させるときに使うものと思われていたことと、江戸幕府によるキリシタン禁止令が慶長18年(1613年)に全国に出されたことによると後藤研究員は考えています。それでも薬としての効能が大きかったので、危険を冒してまで葡萄酒作りをしたのではないかと。だから、細川家だけでなく、他の藩主でも葡萄酒を作っていたところがあったのではないかと推測しています。
この先も新発見があるかも知れませんね。
山梨でのワイン造り
一方山梨でのワイン造りは、どのように始まったのでしょうか。元々甲府ではぶどう作りが盛んで、江戸末期には横浜に入って来ていた輸入ワインに触れて、自分たちで栽培しているぶどうからワインを造ってみようと考えたようです。
一番最初に取り組んだのは、山田宥教(やまだゆうきょう)です。彼は江戸末期から山葡萄を使ってワインを作っていたようです。その出来が良かったので、もっと大量に作って販売して見るつもりであることが甲府新聞に載っていたそうです。
その次にワイン造りを行なったのが、詫間憲久(たくまのりひさ)です。詫間家は代々作り酒屋でしたが、憲久がワイン造りに手を出したために、清酒作りは廃業したそうです。しかし、憲久が作ったワインは西洋から輸入したワインと遜色ないと絶賛され、販売も好調だったと甲府新聞に書かれています。赤ワインは山葡萄で、白ワインは甲州ぶどうで造られたようです。
明治政府の殖産興業の取り組みがあって、県もワイン造りに力を入れていくのです。それが、現在の山梨でのワイン産業の発展につながっているのです。
日本初のワイン醸造は山梨ではないけれど、、、