「ボジョレーの帝王」ジョルジュ・デュブッフ氏亡くなる

2020年1月4日、フランス・ボジョレー地区のワイン醸造家 ジョルジュ・デュブッフ氏が自宅で脳出血を起こして死去しました。86歳でした。ジョルジュ・デュブッフ氏は日本だけでなく世界に新酒ボジョレー・ヌーボーを広めた人です。心よりご冥福をお祈りします。

ジョルジュ・デュブッフ氏はこんな人

1933年ボジョレーの北・マコン地区にあるワイン醸造に関わってきた家庭に生まれました。18歳頃からワインの世界に入り、誰にも真似できない独自のセンス、類まれな鼻としたの感覚で早くから醸造家としてその能力を発揮していました。1964年には自らの名前を冠した記号を設立します。最初はジテ園舎にワインを積んで近隣のレストランに売り込むことから始めたと言います。そして地元やリヨンだけで飲まれていた地ワインを世界に広めようと考えて活動を開始しました。それがボジョレー・ヌーボーです。毎年、夏に収穫したブドウで造る新酒で、鮮やかな色合いで渋みが少なくフルーティな味わいが魅力です。その産地の特徴を生かし、品質にこだわったワインは世界中にファンを持っています。

そんなデュブッフ氏は、日本が大好きで毎年ボジョレー・ヌーボーの解禁日に合わせて来日していました。

「日本は、私にとって特別な国です。初めて訪れたのは1970年代のこと、敬愛するポール・ボキューズしのレストラン『レンガ屋』が日本にでき、私も同行してきました。まだ日本に関する情報が少なかった時代のこと、初めての日本は感動の連続でした。日本の建物や料理の美しさはもちろん、特に惹かれたのは日本人の謙虚さ、思いやりの心など、人としての美徳でした。『この国をもっと知りたい、そして日本の人々に私のワインを楽しんでほしい』と、心から願いました」

そうしてデュブッフ氏は、毎年日本に来ては、名刺を持って地道にレストランを回り、その名が広く知られる様になりました。



ジョルジュ・デュブッフのボジョレー・ヌーボー

ボジョレー・ヌーボーが日本で流行したのは、バブルの時代。ボジョレー・ヌーボーの解禁日は11月の第3木曜日と決まっています。世界で一番早くその日を迎える日本では、秒読みして、その時に一斉にワインを開けて乾杯するのが流行でした。

それからすでに20年以上経ちますが、ジョルジュ・デュブッフ社は常にトップを走り続けてきました。それは、やはり品質にこだわって作られているからでしょう。果実味豊かで香りも素敵です。

「ボジョレー・ヌーヴォーの魅力は“説明が要らないワイン”であることです。フレッシュでフルーティー、飲んで素直においしい。ひと口飲むと幸福な気分になります。また、ぜひ知っていただきたいのが、上質のボジョレー・ヌーヴォーは1年後、2年後にもおいしいということ。一度、試してみてください」

とデュブッフ氏は言います。

一般的に、ボジョレー・ヌーボーの飲み頃は短く、年内に飲み切ったほうが良いと言われています。それなのに、“1年後・2年後にも美味しい”と言えるのは、自信がある証拠ですよね。



「ワインの帝王」の素顔

それも、彼が研究熱心で、毎年来日しては、50〜100社のボジョレー・ヌーボーを試飲している姿勢にあるのかもしれません。

また、「ワインの帝王」と呼ばれることには、気恥ずかしさを感じている様で、自ら”ワインの前では「一生見習い」だと思っている”と言っていました。

ワインというものは、すべてが人の手でできるものではありません。ブドウは自然からの恵み。それを私たち人間が受け取り、全力を尽くすのです。ワインは素晴らしいものです。なぜなら、“人と分かち合う”ことができますからね。私は、そんな“分かち合える”ワインを造りたいと、ずっと願ってきました。その思いは、これからも変わりません

この言葉には、心から賛成です。ここからも彼の謙虚な姿勢が伺えますね。

今度、ジョルジュ・デュブッフ社のボジョレー・ヌーボーが手に入ったら、1年置いて飲んでみようかなと思っています。